紹介「大学改革〜自立するドイツ、つまずく日本」

大学改革 自立するドイツ、つまずく日本、竹中亨、2024、中公新書

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2004年の法人化以降、財政難、研究・教育の自由度や時間が下がったことで、日本の大学の研究力が弱っていることが指摘されている。本書は、法人化20年という節目に、その真の目的、理論的な背景をドイツと比べながら論じている。

*注意

本書は、あくまで法人化の理論的な建前や背景を中心に論じており、予算・人員削減、研究時間減少など、法人化によって実際に国立大学に起こったことについては触れていない。そのため、本書を通して法人化による国立大学の窮状や問題点を知りたい人はもっと直接的な本を読むといいだろう。

限界の国立大学——法人化20年、何が最高学府を劣化させるのか? 、2024、朝日新書

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(この本もネガティブな面を強調しすぎな気もするが。。。)

最近就職した自分なんかは、金が豊かな時代を知らないし、予算は自分で取ってくるのが当然だと思うので、そこまで苦しく思わないが。。。

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1章では、近年の数値目標重視傾向について紹介される。日本の国立大学は、6年間を単位として、かなり細かく記載された中期計画、中期目標を国に提出することで予算を調達している。客観的に評価するために、具体的な数値を立てる必要があり、これを評価するのが法人評価である。法人評価も相当な労力をかけて実施している。業績や社会貢献などについて多数の指標によって大学ごとに評価されている。評価は、大学教員など1000人近く動員されるほど大規模である。また、社会インパクトも指標に加えられており、教員はポイントを稼げる地域貢献事業に取り組んでいる。

一方で、ドイツではこうした数値目標はほとんど設定しておらず、ある州では、研究=外部資金額(45%)、教育=修了生数(45%)、共同参画=女性教授数(10%)だけらしい。法人評価に相当するものはない。

大学の取り組みを評価する際に、そもそも数値目標は難しいし、多くの研究者も同意している。にもかかわらず数値偏重なのは、政府がEBPM(Evidence Based Policy Making)の考えに則っているためである。また、数値を示すことでメリハリを付けようとする狙いもある。その割に、法人評価の結果は数値のみ伝えられ、改善点など一切わからないらしい。



2章では、大学法人化の背景と実態が説明される。近年の大学の悲惨な状態の原因として法人化を上げる人が多いが、法人化自体が問題な訳ではない。政府は大学の法人化と共に予算の削減を実行したが、本来法人化とこれらは別問題である。

法人化の特徴とは、政府から大学への権限譲渡、学内での経営管理的統制化、競争の促進である。この結果、政府と大学の関係は直接コントロールから間接コントロールに移行する。ヨーロッパの大学では、20世紀末に法人化が進んだ。この背景には、ニューパブリックマネジメント(NPM)という公共経営の仕組みを導入したことにある。NPMによって大学の経営運営に関する裁量が大きくなり、より柔軟性の高い運営が可能になり、大学への多様化するニーズに応えれるようになるという狙いである。20世紀末になり、大学の社会での役割が強く求められるようになるにつれ、より柔軟なNPMが導入されたのは必然だった。

日本における大学法人化は、まさしくNPM導入が目的であった。研究だけやっていればよかった時代と比べ、より公共サービス機関の面が強くなった。この背景はヨーロッパと同じで、大学への多様化するニーズや進学者の増加であった。また、法人化によって事務的、時間的コストの節約も達成されることが期待された。

法人化以前の時代に懐古を目指す声もあるそうだが、社会での大学の役割の変化に対応するために法人化された点からも昔に戻ることは不可能だろう。大学は象牙の塔から出る必要があったのだ。(象牙の塔:日常生活における問題への懸念から切り離された、知的探求の環境を意味する)


3章では、ドイツと日本の大学運営を比べる。日本の中期目標・中期計画にあたるのはドイツでは業績協定であり、日本に比べるとかなり緩い。日本では様式が統一されているが、ドイツは大学ごとに様式はバラバラで、ワード文書からエクセルでまとめている大学まである。また、ドイツは目標を達成するための計画に細かい言及は求められないが、日本の中期計画はかなり細かく記載される。

ドイツの業績協定が緩いのは、大学での厳密な目標管理が不可能なことを理解しているからである。①成果が数量で表しにくい、②成果が不確実、タイムラグが不安定(壮大な研究は時間がかかるが、簡単なものは直ぐに論文になる)、③成果が多様で共通尺度がない(理系VS文系)、④学生の就職などが教育の成果だけで説明できない(社会情勢に大きく左右される)の4点より、大学は目標の達成を評価するのが難しい。

この運営方針は目標管理であるため、法人化以降、ドイツは目標を重視し、国からの管理統制は緩くなった。一方で、日本は計画を重視、細かく評価するために、管理統制が法人化前よりも厳しくなった(図3−1)。法人化の本来の意義は、運営の権限を現場の大学に譲渡し、規制緩和するはずなのに。

緩やかな管理なのに、日本よりもドイツの方が研究力が高いのは、自己規律と人事の厳格さである。ドイツの人事は日本の比べ物にならないくらい厳しく時間をかけるらしい。日本みたく研究室の伝統を残すために、閉鎖的な人事をすることもない。研究者のレベルも高い。あと、大学と連携した研究所(マックスプランクなど)が世界トップレベルなので、研究レベルの高さはこうした機関の存在によっても担保される。

日本の大学教員は研究時間が短いことが研究力衰退の原因として挙げられるが、ドイツの教員と、さほど変わらないらしい。つまり日独の研究力の差は、時間や予算の違いだけでは説明できそうでない。

緩やかな管理は、厳格な自己規律とセットで初めて機能する。ただ、自己規律はあくまで内部のものであり、外部のチェックで達成されるものではない。


4章では、これまで論じてきたことを踏まえて、今後の大学コントロールのあり方を提案する。前章で紹介したように、法人化は時代のニーズに対応するためだったこと、法人化自体は昨今の状況を招く直接の原因ではなかったことより、法人化以前の仕組みに戻すことは不可能である。

筆者は、今後の大学において、競争が重要な役割を果たすと考えている。競争は、「選択と集中」に代表されるように、研究に商業主義をもたらすため、大学関係者から嫌われている。一方、筆者は、大学の自律を拡大する上で競争が重要だと考えている。競争がなければ、自律は単に放逸に堕する(勝手気ままに振る舞うこと)可能性があるからである。

ただ、現状の日本の大学間に競争を促進させる動きはいずれもうまくいっていない。需給のプレイヤーが少なく、立地する地域によって不利有利が決まる大学という存在は、市場の失敗領域だと言われている。

結局、現在の大学は公的資源(でかいファンド)を取り合うことで競争しており、大学間の資金配分を不均一にしている(これが競争が嫌がられる理由か?)。現在の大学間競争の問題点は、各大学の自律が乏しいからである。国家による規制が強いため、競争のメリットである改善しようにも、自由度が乏しくできることが限られる。結果、予算の取り合いによる不均一化など競争の弊害と呼べる結果しか招いていない。また、自律が乏しく、特定のテーマに絞って競争を促進させることで、画一化された計画が増え、大学間の個性が弱まる。これも制約された競争の弊害だろう。

筆者は、ステークホルダー間のネットワーク重視・経済面だけでない価値の重視の2つの方向性を提案する。現状日本の大学と政府の信頼関係は薄いが、相互に信頼し合えば自律を促進し、緩やかな目標管理でも十分な成果が取れるかもしれない。大学評価も、ランキングや社会インパクト重視に偏るのではなく、多様な視点と尺度から総合的に判断するべきだ。このような整備が進めば、競争によって大学・高等教育はより良くなっていくだろう。

最後に、悪名高い「選択と集中」について。筆者は選択と集中自体は日本の財政赤字を踏まえると避けられないと主張し、分権的な選択と集中を提案する。政府がトップダウンで決めたカテゴリで各大学を割り振るのではなく、各大学が力を入れたい項目(教育、研究など)で学内で選択と集中を進める。共通項目を大学間の選択と集中を進めるのではなく。

この展望の課題としては、大学の経営の力量不足が最も重要で、それ以外にも大学の特化化に伴い対象外の教員の居場所の確保などが挙げられる。

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